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CO2総合プロデューサー 康浩郎

オープン・コンペ部門の71本の応募作品を約1ヶ月をかけて順次試写を行い、12本に絞り込んだ。

オープン・コンペ部門の選考は、企画制作部門の選考とは正反対のアプローチによる判断作業となった。企画制作部門はまず、応募企画のテキストがあってその上で参考作品として過去の代表作品を観るという手順があったに対し、オープン・コンペ部門は最初に応募作品があってその作品を観た上で、来年度企画制作部門に応募していただくための企画能力(テキストレベルを含む)を類推するプロセスとなった。
 初めに企画制作部門があって、そこへの登竜部門としての位置づけを改めて確認しつつオープン・コンペ部門の選考作業に入ったという意味では、個々の作品の評価ポイントは両者特別の差異はない。
ベーシックなところで見極めようとした課題は以下の通り。

1. 作品を通して“物語”あるいは“物語性”への志向がみえるかどうか
2. それを支える映像リテラシーの程度
3. 自主映画のレベルを半歩でも超えようとするスタッフワーク、またはキャスティングへの準備体制

その上で、応募作品からうかがえる監督それぞれの個人のイメージについても類推しようとした。

1. 最近はやり(?)の「自分探し・・・」をどの程度脱却しようとしているのか。
2. 自分の個性というものを例え少しでも発揮しようとしているのか。
3. 他者との関係で表現を客観化しようとする努力が見えるのかどうか。

厚かましいながらも、このような視点も入れて見通すことでしか企画制作部門への登竜門という可能性は見つけることができないと考えた。来年の第2回のCO2への応募に当っては、以上のような判断基準への反論も含めて大胆な作品が現れることを望みたいと考えた。
この後、選考委員による審査を経て優秀作品が選ばれる。我々も楽しみにしています。応募者に改めて感謝申し上げます。


CO2上映ディレクター 富岡邦彦

 71本の作品が集まった。特徴的なのは優れた作品の多くが映画学校やワークショップで製作された作品であったということだろうか。いずれにせよこれらは「自主映画」や「学生映画」とはまた別の作品になりつつあり、「インディペンデント(独立)」映画に限り無く近いようにも見える。この問題点については2/14-15日の上映日に大阪芸術大学教授である中島貞夫氏と黒沢清氏の対談の中でも重要なテーマになるだろうと思う。映画製作は教育出来るのであろうか?

 かつて1970年代から80年代にかけて「自主映画」といわれた作品群の多くはかなり異形の作品があったように思うが、今回の71本の中にはそういった作品はほとんど見当たらなかった。それはどうしても映画を撮りたかったという迫力の欠如であるのかもしれない。今や誰でもそれなりに映画が撮れてしまうのである。今更だろがDV=パソコンによる映画はまた別の価値基準を創り出している。だからと言って映画は絶対に自由であったりしない。授業で創られる映画や指導を受けて創られる映画はすでにあるラインに乗った「プログラム」である。しかし「プログラム」であることは否定的なことではない。そしてCO2は独自の「プログラム」としての基準を見せなければならないだろう。評価を下し、71本から12本の作品を選びだす行為そのものが基準である。

 作品はやすやすと比較できるものではない。これは選ぶ側の基準である。10分以上60分以下をオープン・コンペ部門の基準にしたのはもちろん「物語」を語れる力を問いたかったからである。しかし二日間で上映出来る作品の数も限られてくる。もちろんオープン・コンペ部門は単に企画制作部門の前座ではない。まず枠があって作品を選ぶのである。運、不運もあるだろう。全くダメな「出来の良い」作品もあったが、いろんな理由で選考からもれた作品も数本あった。それぞれの選考された12作品についてはあらためて作品選考の理由を書く機会に触れたい。まだこの中から当日作品の賞を発表することになるのであるから。

 そこで残念ながら12本からもれた作品について触れておく。まず気になった作品は石原貴洋氏の「まさしくん」、佐々木友紀氏の「がやがや阿佐ヶ谷」、中森哲也氏の「ザッツ・エンターテインメント」、西有志郎氏の「宿題」、木村文洋氏の「なしくずしの志」、武重光紀氏の「生存者、機長と副機長」。これらの6作品は未開の可能性が見え隠れするものである。「宿題」に関してはこのアナクロさは意識したものかどうかかなり興味深い。何もかもが古臭く、60年代に撮られた教育映画のようなニュアンスがかえって革新的に感じてしまった。「ザッツ・エンターテインメント」と「なしくずしの志」については作者が思考停止、あきらめてしてしまったように見えるのが残念である。

「生存者、機長と副機長」は本気でやればかなり面白い作品になり得た短編ではもったいない。こういった等身大とはかけはなれた大胆な企画は映画のグラウンドに乗った作品である。一方、等身大のリアリズムからすこしズレはじめる作品では上馬馬健弘氏の「保存液」、横井盛夫氏の「コエナシ」、柴田鉄平氏の「HAPPY END」はそれぞれが足りないものを並べて見れば濾過できるものがあるだろう。アクション系では樽本克也氏の「Skull Head」、田原実氏の「幽撃手」は見栄えはいいが今後はシナリオを組めるようになればと思う。それから三輪隆氏の「花」、これは柴田鉄平氏と同じく俳優が監督した作品であるが演じるために撮った作品から次の地平が見えようとしており、強靱さを感じた。最後に長篇に多かった「出来の良い/ウェルメイドな」作品は、どうしても映画制作の段取りに逃げているように見える。「繋がらない」のを勝手に「繋ぐ」のが魅力にならなければならない。映画に文法はないという前提ではじめてもらいたい。作り手が文法を創るのである。それがシネアストの役割ではないか。上映の選考に残った作品がすべてこれらをクリアした作品でもない。そこでなぜこの基準で作品が選に洩れたのかはぜひ2/14-15に確かめに来ていただきたい。


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